Myths

最近、メディアリテラシーって何だろうなと考えるときがあります。確か本来は『マスメディアの報道をそのまんま信じるんじゃなくて、自分の頭でも考えなさいよ』、といったような趣旨の言葉*1だったと記憶しています。

しかし、これが最近屈折した意味で使われているように思われてならないのです。

インターネットが普及して、事件だの政治やらに関した自分の意見を、ブログやチャットや掲示板を通じて、手軽に世界へ発信することが可能な時代になりました。今こそ、マスメディアが私たちに「与えたい情報」を受け取るだけではなく、自分たちで事件や政治について考える時代に到達したのではないでしょうか。

しかし、果たして実情はどうでしょうか。

確かに、現代の報道に関して、その不正を暴いたり、異を唱えたりするサイトやブログを見かけるようになりました。その誠意と、調査力や分析力には敬服いたします。しかし、問題はそのサイトの説得力を利用し、あたかも、インターネットを現在の除くメディアが、メディアにとって都合のいい情報のみを私たちに与えている、とでも言うかのような編集の仕方をする人がいることです。

自称インターネット中級者は、「インターネットの情報はあまり信用するな」といった言葉を嫌います。それも、しばしば過剰気味に。しかし、マスメディアの報道よりもインターネットの情報のほうが正しくて、新聞やテレビとその内容に食い違いがあるときは、ネットの情報の方を信じるというのはどんなもんでしょうか。

確かに、新聞やテレビにも誤報というものがありますし、常に商業というものが絡んでいますから、その情報はしばしば偏向的だったり、あまりに選択的だったりします*2

マスコミの不正を、インターネットが暴くというのは痛快なものです。いや、本当に。大衆報道が明らかに恣意的な資料を用意していて、どこかのサイトがそれを見出すと、まるで映画のように、国家の野望を防ぐ主人公になったかのような錯覚を覚えます*3。そしてこれこそがメディアリテラシーであると声高に叫びたくなります。

しかし、それだけで現在の報道を全て疑ってかかる人間もいます。一つに記事に対する不信感は、時に会社や局全体に対するレッテルとなり、いつかその捏造報道を暴いたもの(つまりインターネットの武勇伝)のまとめが、その人にとってのマスコミ=社会悪といった印象を決定付けます。

それは、信仰と呼んでもいい代物で、その凝り固まった信念を否定するのは難しいでしょう。ちょっと前にベストセラーになった「バカの壁」という本のサブタイトル(?)に『「話せばわかる」だなんて大ウソ!』という主旨の文句がありましたが、私は大いにそれに賛同します。

話が変わりますが、宗教やだけじゃなくて、政党とか、憲法九条とか、野球からケータイしかりジャニーズに至るまで、相手がそれに『信仰』を抱いているときは、それに対する議論をしても、実りの少ない徒労に終わるでしょう。相手の信仰事象に対して言を交えてたところで、自分の主張が相手の脳内係数にひっかからず、互いに無辺世界へ言霊を投げあって、両者の主張が平行線になる、っていう展開になることが少なくありません。*4

インターネットは、探したいものしか見つからない不便な場所です。仮にあなたが一つの観念に縛られていたとしても、その仲間や裏づけが欲しいときは、それは確実に見つかるでしょう。ただし、そこには、一切の反論も、疑惑もありません。

だから、もし貴方が、『はてな、コイツは見当違いの世間知らずの個人主義者だな』と思ったとき、もしかしたら、相手も同じことを思っているかもしれない、ということを覚えていてください。自分にそのつもりが無くても、ただ相手が信仰を抱いているだけで、あなたも信仰を抱いていることになるのを覚えていてください。

私はマスコミの偏向報道や、捏造報道や、恣意的な編集の仕方を紹介しているサイトを何度も見かけて、何度も憤慨しました。しかし、坊主憎けりゃ袈裟まで〜 の精神で既存のメディアを頑なに拒む姿勢は褒められたものではないと思います。

私たちが信仰を抱いている限り、ネットとその他の広告媒体は決して結ばれることは無いでしょう。

*1:狭義だけど

*2:それを見極める(?)のがリテラシーなのだけども

*3:妄想激しすぎか

*4:これは、両者が自分の主張を正しい(恒真)だと思っていることに起因していると考えられます。これは人対人だけでなく、国家間のスケールでも難解な展開ですので、基本的に解決しません。